ケータイが必要な世の中にしたのは誰だ。
2006-04-19


子供の携帯電話使用は是か非か (コデラ ノブログ さま)

中学や高校になると、都市部では電車による通学が有り得る。ここまで年齢が進むと、携帯電話を持たせるかどうかは本人の自主性に負うところが大きくなるのだが、逆にそれだけ多くの人に囲まれている状態で、携帯電話が安全を確保する装置として機能するかというと、そこは疑問の余地があろう。

痴漢にあったら、携帯で親にメールしてもしょうがあるまい。また事故などで電車が止まるようなことがあったとしても、果たして携帯電話で親に連絡してどうにかなるものなのか。

そういう時こそ、勇気を持って見ず知らずの他人に助けを求めたり、あるいは事故に対して何もできない自分に対して無力感を感じたりというほうが、社会生活に対する学習効果としては正しいような気がする。携帯電話のおかげで、自分だけが一本釣りで助かったような状況というのは、都市型社会では考えにくいのではないか。それよりも、見知らぬ他人とコミュニケーションをするという状況に強制的に身を置くというのも、一つの教育の考え方としてはアリかもしれない。

違う違う。使い方が間違ってますよ。連絡ってのは、非常時に使うものではなくて、無事であることを確認しあうためにするものです。どういう事件や事故に巻き込まれているか、それを解決するにはどうすべきか、などと言うことはこの際重要ではないんです。親はただ、子供の帰りが遅いことが心配なだけで、その理由を知るための連絡手段が確保されていることに安心を覚えるのです。

駅に掲示板があったり、街中のいたるところに公衆電話が設置されていた頃であれば、「ケータイは必要か不要か?」といった議論には意味がありました。ケータイを持っていなくとも、他に外出先からの連絡手段はいろいろとあったからです。おいらが子供の頃だって、当時はケータイなんて存在しなかったけど、親にテレフォンカードを持たされて、何かあったときにはそれを使って電話を入れるようにと躾けられていたものです。

ケータイの普及により、駅の掲示板はほぼ全廃と言う勢いで撤去され、公衆電話もあまり見かけなくなりました。ケータイを持っていなければ、他に連絡を取る手段があまりない世の中になってしまい、連絡のための生命線がケータイのみに委ねられるようになってしまいました。

これはこれで危険なことです。何故なら機械は、いや、機械を使う人間は、万能ではないからです。電池が切れてしまうかもしれないし、落として壊してしまうかもしれない。家に置きっぱなしで忘れてきてしまったために、待ち合わせていた人に多大なる迷惑をかけてしまったこともあります (ケータイのアドレス帳に慣れてしまうと、いちいち他人の電話番号を覚えなくなってしまう為)。紛失はそのまま関係する人間の個人情報流出に繋がります。連絡手段をケータイに依存すると言うことは、それだけ大きなリスクを背負うことになります。

そうしたリスクを軽減するには、公共の連絡手段が充実していることが絶対条件であるのに、実際にはかつて充実していた公共の連絡手段がどんどん失われてゆこうとしているのです。だから、結果として、ケータイに依存せざるを得ない状況に追いやられているのです。

そういう理由で、おいらは今の時代を生きる子供にケータイを持たせることは、かなり高い優先度で推奨されるべきことであると思います。

// //]]>
[社会問題、政治等]
[教育]

コメント(全6件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット