真面目な教師が問題を抱え込む時代
2006-08-21


先日、こちらの記事にて、RFID を用いたセキュリティーシステムが子どもの仲良し分布を調査する目的で利用される可能性が示唆されている件を取り上げた際、コメント欄におけるやり取りにて、担当教師のブログ記事から読み取ったこととして、「どうやらいじめ問題などは教師ががんばって防がなきゃあかんもんだと考えているよう」だと書きました。そして、おいらの意見として、子どもの交友関係や生活実態を把握することは教師の仕事では無いとした上で、児童・生徒間で起こった交友関係上のトラブルについてまで、教師や学校が必ずしも責任を負うべきではない、ということを書きました。

タイミングよくして、こうしたことについて関係の深いニュースを見つけましたので、以下に紹介します。

おいらが中高生だった 90 年代初頭、いや、もうちょっと前からだったかもしれませんが、「サラリーマン教師」という言葉が取り沙汰され、廃止されてゆくクラブ活動の実態や、週休二日制の発足などに対して批判的な声が少なくない時代がありました。当時のメディア、そしてそのメディアを見てきた保護者の皆さんは、口をそろえて「今の学校・教師には常識が無い」と叫んでいた、そんな記憶があります。

上記の記事については、今朝、テレ朝の「スパモニ」にて、上記記事と同様のニュースを取り上げていたのを見て知ったのですが、この中で取り上げられている「保護者の声」とやらの例を見るにつけ、そもそも「常識」ってのは誰のためにあるんだろうなぁ、などと思ってしまうわけであります。

「常識」という言葉が通用するのは、そこに「密接した社会」が存在することを前提とするものである、とおいらは思います。実際には、「常識」などというのは個人が各々において、ごく個性的に持っているものであり、万人どころか、ほんの少し社会の枠組みを広げただけでも簡単に食い違ったりするものです。家庭での常識は地域の常識にあらず、地域の常識もまた、国の常識、世界の常識ではない、といった按配です。そして、例えば「地域の常識」というものが存在するのだとすれば、それは、その地域社会にコミットしているいくつもの家族が寄り合い、折り合いを合わせて醸成するものであり、その範囲は家庭内で醸成されるものよりも、ずっと狭い、ごくごく限定されたものであるべきです。

生っぽくて俗っぽい言い方をするならば、家庭には家庭の事情があり、地域にもまた地域の事情というものがあったりするわけです。時にこれらに対してマスメディアが干渉し、場合によっては社会現象やスクープとして取り上げられてしまう場合さえあったりします。毒カレー事件を通して取り沙汰された新興住宅地にありがちな対人関係だの、酒鬼薔薇事件を通して取り沙汰された少年犯罪心理だの、ルーズソックスの流行で取り沙汰された都内ガングロ女子高生の夜遊び事情だの、「当事者」の枠組みに押し込められた人々にしてみれば「ほっとけ」と言いたくなるようなことが、メディアによって、さも問題であるかのように取り扱われたりしてきたわけです。


続きを読む

[社会問題、政治等]
[教育]

コメント(全1件)
コメントをする


記事を書く
powered by ASAHIネット