銃を身近に接する文化の人間とそうでない人間とでは、考え方が異なってくるのは当然だと思う。
人を殺すことのできる道具を所有しながら社会に参加するということは、自らにそれだけの強い責任を持たせるということである。他人をいつでも殺すことのできる準備のある人間を、それでもコミュニティが対等に受け入れるということが、彼らが強行に及ぶことは無いとする絶対の信頼の元にのみ成り立つものだとするならば、そういう感覚で社会に参加する人々に対して、銃を規制するという議論を持ちかけるのには無理があるのではないだろうか?
銃が人を殺したのではない、人がそうしたのだ
。こうした理屈がまかり通る前提として、銃を通じた親子間の、代々伝わる躾があるのだとしたらどうだろう? この銃を使えば、君は誰でもその手にかけることができる。しかし、社会に参加するということは、その銃を使いたくなる誘惑に打ち勝つ、強い心を持つことなのだ、と。
こうした教育は多くにおいて、とりあえず社会が成立する程度には成功しているのだろう。だからこそ、兵器所持を規制する国に住む日本人との、根本的な考え方のギャップが生じるのではないか? 一方で、成功していない一部の人間が銃乱射事件を起こすのだが、それが「一部」とは言っても無視できない程度には多いからこそ、他国からは問題視されるのではないか。
何より今回の事件では、実際に銃を乱射した犯人が韓国からの留学生であったということもあって、アメリカ人にしてみればなおさら説得力が低い可能性も否めない。もちろん、誰にでも容易に銃が手に入ってしまう状況があったからこそ、銃社会という文脈に対するリテラシーの低い外来者が悲惨な事件を引き起こしやすくなってしまう点については、もっと議論があっていいとは思う。つまり、「人を殺すのは銃ではなく人だ。しかし、我々よりも銃を所有することに対する責任感の低い人間が容易に銃を手にすることができる社会には問題がある」ということだ。
認証機能つきの銃や、銃所持の免許制などは、そういう意味では現実的な解であるといえるし、もっと議論されてもいいと思う。
もっとも、人間の心の強さを前提とした社会なんてのは、個人的にはやっぱり好きにはなれないわけなのですが。。。
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