とはいえ。
こうした状況は「ニコニコ大会議」が最初だったのでしょうか。
いいえ、違いますね。
誰かに向かって揶揄したり、誹謗したり中傷したりからかったりして「楽しむ」光景は幾らでもあります。
2ちゃんねるで、はてなブックマークで、twitterで、ウエブログで、ウエブ全体で、いいえ、社会全体で。
右を見ても左を見ても嘲笑、誹謗、中傷、差別、憎悪がどす黒く渦巻いているではありませんか。
日本の動画サイトでは顔出しで出ている人が少ないが、それはこうしたことを恐れているからというのも一つにあるだろう。誰だって無闇に自分の外観をネタにされたくはない。せっかく作ったネタを外見ネタで浸食されたくない。
それは突きつめると、我々日本国民の民度の低さに行きつく。作品よりも演じてる人間の外見が気になってついつい「ハゲw」だとか「ピザw」だとか書き込んでしまうのだろう。それで笑えてしまうというのは、精神レベルが小学生並みだということを示してる。
外見をネタにせず作品を楽しめるまでに、我々日本人は文化的に成熟していないのだ。
民度[LINK]とはなんだろうか。一般的には、市民の社会成熟度のことを言う。社会的に成熟している状態とは、すなわち、自分が所属する社会を構成する人々と、ともに社会を取り持つことを、その社会に所属する個々人がどれほど意識しているか、っていうこと。
この意識が高ければ、自分とは大きく異なる人間、たとえば生まれながらにしてやたらと髪が薄い or 天パであるとか、ずば抜けて背が高い or 低いであるとか、障害で下半身がないであるとか、いわゆる精神遅滞であるとか、はたまたガイジンであるとか趣味がアレであるとか倫理観の違いであるとか発育がとか家が金持ちとか、まぁそういうことの一つ一つを嫌悪するでも無視するでもなく、直視した上で受け入れられるはずだ、なんていう風に言われていたりするわけだ。同性愛者をとりまく環境は社会の成熟度を示すバロメーターだなんて言われてみたりな。
まぁ、現実問題として、こいつらと社会をともにし、こいつらと主権を分かち合い、こいつらと利害を共有しなければならないと言うことに目を向けられるならば、偏見抱いて嫌悪してたって始まらないわけで、境遇やら事情やらはどうあれ対等に向き合って対話ができなきゃならない。でもまともに対話するには相手のことを理解できていなければ、話題によってはそれで文脈を捉え損ねて平行線をたどったまま議論が何も進まなくなってしまうと言うことがありがちになってしまう。だから、民主主義的な社会においては、とりわけ民度、社会成熟度と言うことが重要視されるわけだ。
総芸人社会
が KoshianX さめによって「民度が低い」と断じられているのは、そうした態度が上で書いた「まともに対話」することを受け入れられる態度であるようには見えないから、ということなのだと思う。従って、ブ米
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