感情表明は議論の入口である。
2007-01-14


トラックバック返し、簡潔に。

これはあまり同意できない。
善悪が絶対的指標にならないのは非常に同意できるけど、自分が○○が嫌いである、という主張は反証可能性において、著しく議論のルールを侵している。
例えば「私はAさんが嫌いだと思います!」という主張について、他の人がいかにAさんのすばらしさを挙げてやっても「でも私はAさんが嫌いなんで」で、終わりになっちゃうよね。
感情や個人思想を原点に議論を展開するのは、絶対に反論されない防御を敷くもので、最初から議論の土台にあがっていないのと一緒。
神の有無の議論中に「でも私は信じている」と言い出すのと同じく不毛。
インテリジェントデザイン理論の人も同じようなこと(世界観の違いである、とか)を言う。
それにも関わらず、まるで議論のように話を展開するのであれば、結局、絶対的な正義を持ち出すのと同じだと思う。
不可侵なものを自分の外に作るか、中に作るかの違いしか無い。

好きか嫌いか、っていう部分そのものを、議論しようとしているのかしら? おいらはそういう風には受け取らなかったんだけど。。。

まぁ、議論なんてものに常に有益性ばかりを求めてしまうのも肩がこる話ではあるのですが、議論の目的は人それぞれなので、その議論の入口が個人的な感情 (今回の場合は、「好き / 嫌い」) に端を発すると言うのも、それはそれでありだと思う。例えば、今回の松永氏による感情表明に対して共感を寄せる声が多数寄せられるようであれば、同じように 2ちゃんねる的な「正義感」を嫌っている人は結構多いぞという (それも属性つきで「○○な人にそれを嫌がる人が多い」みたいな) 観測結果が得られることになる。その情報自体は、今後の議論の発展の為には有益と言うことになる。

議論が終始感情論のみで継続するのは有益ではないけれども、議論の起こるきっかけが感情の表明であるというのはダメとは思わないし、むしろその方が議論の展開としてはよっぽど自然なんじゃないかと思う。商品企画などの段階で行われる「何があれば便利か」という議論は、「○○しなきゃならんのが不便で嫌だ」という感情の表明 (と、それに対する多くの共感) が無ければ始まらない。論理が役に立つのは、それが感情に対する正当な対処でありうるからなんじゃないかと思う。多くの人々は私生活において自己の感情こそ重要視する。理屈をこねるのはその感情に対する解決策を求めようとするときだけで良い。

よーするに松永氏は今回の意思表明に関連して、2ちゃんねるをどうしたらよいかという部分についてまでは触れていない。そもそもそこからどういう議論に発展させようというところにまでは踏み込んでいないのだ。彼の発言は所詮、議論の入口に過ぎない。その入口から多くの人々が入り込んで議論として成立し活性化するかもしれないし、入口で散々野次だけ飛ばされて結果議論にまで発展しないかもしれない。

ちなみにおいらが前回書いた記事も、大枠は単なる感情の表明に過ぎません (何で嫌気が差すんだろう、っていう部分に対する分析が多少含まれてはいますが)。松永氏とは微妙に異なる価値観を示すことによって、入口を少し広げてみる、ということを試してみた、って感じです。

[戯言]

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