コミュニケーション疲労と心の距離
2007-03-22


mixi 疲れとかよく言われてるけどその辺に関する考察。

結論から言うと、コミュニティにおいて何らかの問題を共有している場合、そのコミュニティに参加する人のストレスは以下のように算出することができる (但し、かなり単純化している)。

コミュニケーション疲労度 = 問題の重大さ / (親交度 * 心の距離)

ここでよく誤解されがちなのは、親交度と心の距離との間に、反比例的な相関性がある、とする迷信である。人との付き合い方にある程度慣れている人であれば、親交の深い友人や家族などとも、心の距離を程よくとるようになる。そしてその結果として、コミュニケーションはより円滑となり、そして親交度はより深まることとなる。この論理が理解できないまま大人になってしまう人が、最近増えてきているのではないか、という疑念がある。

そもそも、「心の距離をとる」とは、どういうことを意味するのか? そこにまず誤解があるんじゃないかと思う。ありがちな誤解としては、「心の距離をとる = よそよそしく振舞う」という捉え方だが、これは日本人的事なかれ主義をベースとした社交的論理であり、必ずしもすべてのケースにおいて正しいわけではない。意味合いとして当てはまる、最もしっくり来る言葉は、「心の距離をとる = 相手の行動を許す」ということではないかと思う。逆にいえば、心の距離が近ければ近いほど、相手を許せなくなる、という論理である。

いくつか例を挙げてみよう。

休日に友達同士で誘い合わせてどこかへ遊びに行くことになった。行き先は何でもいいんだが、例えば、、、映画を観に行く、とでもしよう。映画は 13:15 から始まるが、昼飯も済ませておきたいし、移動の時間もあるし、ある程度時間に余裕を持たせておきたいというのもあるので、自分たちの住んでいる地元の駅に 10:00 集合ということにした。

ところが、待ち合わせをしていた友達のひとりが朝寝坊をしてしまい、約束の時間になっても来ないので電話をしてみたら、「ゴメン、今起きた。着替えてすぐ行くから待ってて〜」などと言い出した。仲間達はみな、「しょーがねーなぁ」と苦笑いしながら、その寝坊介を待つことにした。

まぁ、実際の彼らの対応の仕方は他にもいろいろとあるだろうし、それ自体はその場のケースバイケースで動けばいいんだろうなぁとは思う。先に現地へ行くだけ行っちゃうっていう手もあるし、開演にも間に合わなければ先にチケットを買って中に入ってしまうっていう手もある。昼飯を食べる時間もあるのだから、この寝坊介君も今回のケースでは最低映画には間に合うだろう。だがそんなことはまぁどうでもいい。

問題は、この寝坊介君を、仲間達が許せるかどうか、という点に尽きる。ここで、この寝坊介君に対する不快感がより高い人ほど、心の距離は短いということが言える。

まずこの前提条件が分からない人は、とりあえず乳幼児と母親の関係を思い出してみて欲しい。

乳児は母親との一体感が強く、母親に対する心の距離は非常に短い。従って、ちょっとした事でも簡単に不快感を表し、泣きじゃくる。乳が出ないと泣き、おしめが濡れると泣き、抱き方が悪いと泣き、そして目を離すだけでも泣いたりする。

幼児は少しはマシになるが、それでも親に対する依存度は極めて高い。自分の願いが聞き入れられないと駄々をこねる甘えん坊さん。転ぶとすぐ泣き出すのも、側にいる親がなだめてくれることを期待しているからだ。

しかし成長してゆくに連れ、子どもはだんだん、親には依存しなくなってゆく。わがままも減り、泣くこともなくなり、逆に何かを手伝ったり、人によっては家族のためにできることをいろいろと考えるようになったりする。そうしてやがては自立し、人によっては親元を離れて生活するようになったりする。


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[戯言]

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