先ほどの友達同士のケースに戻ろう。心の距離の短い付き合いを求める人に問いたいのだが、もし、君がこの寝坊介君だったとして、自分のことを許せない友達がこの中にもしいたとしたら、君ならどう思うだろうか?
僕は寝坊なんかしない、と答えた人は、考えが浅いと指摘しておく。君は寝坊しないよう「気をつける」ことはできるが、それを以って絶対に寝坊しないでいられることを保証できるわけではない。例えば目覚まし時計の電池が切れてしまうことだってあるし、突然壊れてしまうことだってある。それに、明日の映画が楽しみで仕方がなくて、興奮して眠れなくなってしまうかもしれない。
ミステイクは寝坊だけに限った話では無いだろう。例えばインフルエンザに感染してしまったとしたらどうだろう? 映画は諦めざるを得ないだろうね。でも、それすらも許せないという友達がいたとしたら? 「健康管理ぐらいしっかりしろよ、ヲレは友達と約束するときは、絶対に風邪なんか引かないようにするぞ」なんつってね。
そういう付き合いは、非常に疲れる。そして、そういう付き合いの仕方を理由に、「俺達は本当に仲のいい友達だ」ということを証明しようとしているのだとしたら、それは恐らく、うまく行かないだろうとおいらは思う。
本当に親交の深い交友関係であるならば、こういう場面で個人を許せる余裕があるものだ。自分が何かミスをやらかして仲間達に迷惑をかけることがあったとしても、彼らはきっと許してくれる。その、「許してもらえる」っていう部分を信じているからこそ、安心して友達づきあいを続けられるのである。許すという事はすなわち、気にしないと言うことでもあり、それはある程度の心の距離がとられた状態である、ということの証明である。すなわち、心の距離が適切な長さを保っている方が、友達づきあいの親交度は深まるのである。
「許す」ということは、何もミステイクに限ったことではない。二つ目の例を示そう。
友達同士でおしゃべりをしていて、あるミュージシャンの話題になった。大抵の子はそのミュージシャンに対して否定的で、けなすようなことを言い合って笑っていたが、一人の子が、実はそのミュージシャンの大ファンであり、そんなことは無い、彼の音楽はとてもいいじゃないか、と反論した。
この反論はミステイクではない。が、この場にいた仲間達の何人かは、不快感を表すかもしれない言葉でもある。この反論が、実際にできるかどうか、そして、こうした反論に対して、どのように受け止めることができるかどうかでも、親交の度合いというのは見えてくる。
まず、反論できない、反論を許さないような空気のある友達づきあいというのは、論外である。君たちは友達でもなんでもないから、むなしい友達ごっこはやめて、もっと自分の没頭できる何かを探すことに時間をかけた方がいいよ、とおいらならアドバイスする。自分の言いたいことも言い合えないような仲なんてのは、友達ではない。
しかし一方で、この反論を許さない空気こそ、心の距離が短いことの証左でもある。何故なら、相手が自分と同じ意見・心境であることを、相手に期待し、望んでいるからだ。だから、その期待を裏切るような意見に出くわすと、その意見を口にする相手そのものが許せず、反発する。「どうしてそんなことを言うの?」ってことになる。で、そうやって嫌われるのが恐いから、誰も反論できなくなる。何で恐くなるのかといえば、自分がそれを許せないのと同様、相手もきっと、それを許してはくれないだろうという「不信」があるから。
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