コミュニケーション疲労と心の距離
2007-03-22


さて、実際に反論を受けたとして、それに対する反応の仕方についても考えてみよう。ここで、徹底的に言い合いとなり、いや、俺はあいつらの音楽は糞だと思う、そんなことは無い、彼らの音楽は最高だ、と論争になったとする。彼らの親交度と心の距離は、どういう状態だといえるだろうか。

もしもその論争の後でも、彼らの友達づきあいとしての関係に対して影響が無いならば、彼らの親交度はかなり高いといえるし、同時に心の距離も十分な余裕があるといえる。彼らは、いくつかのことについて意見を違え、それで言い合いになるようなことが例えあったとしても、その程度で絆が失われることは無いことを知っているし、信じているからである。

それでは、この反論に対して、とりあえずその場は理解を示してみる、という対応についてはどうだろうか。

本当にその場にいる全員の気が変わり、そのミュージシャンのことを評価するようになったのだとすれば、それは単に反論した人間の説得力が優れていたという話になる。それはそれでアリだし、議論の種類によっては、最終的に全員の同意事項が形成されるというのはいいことでもあるのでまぁいいのだが、そういうことばかりでも無いだろう。とりあえずその場限りで理解したフリをし、事なきを得ようという「事なかれ主義の発動」が起こっているのだとすれば、その友達の親交度は決して高いとはいえないかもしれない。心の距離についても同様であり、内心で不快感を沸々とさせている可能性もある。そうなっちゃう人というのは友達付き合いでどんどん疲弊していくことになるし、その一方で常に何とも言えない「寂しさ」を抱き続けることになる。

もちろん、反論が適当に受け流されることがあったからといって、必ずしも親交が浅いわけでも距離のとり方が下手なわけでもない。論じている物事自体がその友達の間では取るに足らないことであったり、あるいは既に同意事項として、「あるミュージシャンを好む奴もいれば、嫌う奴もいて当然だ」という認識があったりするならば、そうか、お前は好きなんだ、ヘェ、で完了でもまったく問題ない。

しかし、いつも仲良くニコニコやって、いがみ合うことがまったく無いのが「良い友達づきあい」なんだと言う前提のもと、おっかなびっくり友達づきあいを演じているのだとしたら、それは悲しくも虚しいことだ。もっともっと、本気でモノを言い合えるようでなければ、本物の仲間を得たということにはならないのだ。

では、友達同士、本気でモノを言い合えるようになるには、何をどう、気をつければよいのか。実際には何かを意識して気をつける必要は無いはずなんだが、敢えて言うならば、自分の意見を持ち、反論すべきは反論するよう心がけること、なんじゃないかと思う。そして、相手を言い負かそうとするのではなく、相手の話もしっかり聞き入れて、常に自分の考えの正当性も疑ってみること。何はともあれ、誠意ある対話のできる人間は、どんな考え方の持ち主であれ、それなりに人に好かれるものだと思う。

しかしそう考えてみると、実は論理的思考に長けている人間ほど、人とのコミュニケーションにも長けているものなんじゃないかと思えてくる。論理的思考に長けているならば、発言と、発言した人とを、完全に切り分けて考えることができるはずだからだ。そういう人は、意見を違える相手を、意見を違えるからという理由で嫌うことはあまり無い。俺は右翼だしあんたはどー見ても左翼だけど、それはそれとして、飯はうまいし酒もうまい。こんないい店知ってるあんたとは仲良くなっておきたいねぇ。みたいな。(めちゃくちゃな例えだなw)


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